「ドイツ参謀本部」渡部昇一著 2020年12月5日 吉澤有介

世界に冠絶した軍事的組織からみた類例のないドイツ近代史

中公新書、昭和49年12月刊
本書は、上智大学教授であった著者が、戦後まもない頃、ドイツのミュンスター大学に、言語学研究留学した際に、専門外の分野についても多くを学んだ、その一つをまとめたものです。ドイツ参謀本部を中心とした近代欧州戦争史で、今では貴重な資料となっています。

近代ヨーロッパの戦争史は、まず1618年に勃発した三十年戦争で幕を開けました。それはドイツ国内のカトリック諸侯とプロテスタント諸侯の争いで、周囲の国がそれぞれの利害関係から介入した、ヨーロッパでの最後の宗教戦争でしたが、次第に複雑な戦国時代となり、無意味な殺戮が横行して、ドイツの人口の60%以上が消えてようやく終わりました。ここで戦争を、たとえ正義のためであっても他国の権利を尊重し、法に従って行う「国際法」の考え方が生まれたのです。国王たちの戦争は、当時の啓蒙主義を踏まえて、相手を追い詰めず、お互いの憎悪も熱狂もない、スポーツのような「制限戦争」に変わってゆきました。

制限戦争となれば大義はなく、志願する兵士はいないので、貧農の子弟や失業者を誘い、さらに外国の傭兵に頼ることになりました。そこで君主や将軍が最も恐れたのは、兵士の脱走・逃亡でした。もはや危ない戦闘はできません。戦争はしても戦闘を極度に恐れました。

その中でプロイセンでは、大王フリードリッヒ三世が出て、圧倒的な強さを発揮しました。人口は周囲の大国より一桁も少ない250万に過ぎませんでしたが、戦場では大王自ら先頭に立ち、将校は世襲で忠誠心の強いユンカーで、厳格な軍律の上に戦術を工夫し、行軍の速度を上げ、兵站を重視しました。また大王は文学を愛したフルート奏者で、とにかく恰好が良かった。洗練された軍事ゲームの最高指揮官であり、参謀総長でもありました。大王は技術系の兵站参謀と、高級副官制度をつくりました。そこで頭角を現したのがアンハルトで、初代の専任参謀総長として、大王を「戦闘なき戦争」の常勝者にしました。しかし彼は終始全くの無名で、この無名性こそがプロイセン参謀本部の最大の特徴となってゆくのです。

大王が74歳で静かに世を去った3年後、フランス革命が勃発しました。プロイセンは平和を求めたのに、フランスは熱狂していました。相手を徹底的に粉砕する、三十年戦争の心情に戻ったのです。徴兵制で大軍を生み出し、そこにナポレオンが登場しました。師団編成で機能性を高めると、火砲の活用で軍事技術が必須となり、エコール・ポリテクニックを設立して、まさに破竹の勢いでした。リーダー不在で将軍たちも老いていたプロイセンは、ナポレオンに講和を申し入れましたが、冷たく拒否されて国内を縦横に蹂躙されました。

そこに自薦で技術中佐として参加したシャルンホルストが、抜群の頭脳で参謀本部を改革して人材を育成し、冷静にナポレオンを分析しました。ナポレオンは自分の天才を信じて、参謀スタッフを置かず、直接命令を下していました。しかし大規模な戦場になって、忽然とその限界が出てきたのです。シャルンホルストは戦傷死しましたが、彼の育てたグナイゼナウがナポレオンを破りました。ナポレオンは、最後までプロイセンの参謀本部に気がつきませんでした。ドイツ統合後、知将モルトケが登場して、首相ビスマルクとの絶妙なコンビで活躍しましたが、無名のはずが名を挙げて、それが悲劇への序奏となってゆくのです。「了」

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